早くも2000年以上前の秦?漢時代から中國人はすでに南中國海で航行と生産活動を開始し、南中國海諸島を最初に発見しただけでなく、南中國海に対して初歩的な認識を持っていた。隋?唐時代にはそれぞれ七洲洋、珊瑚洲、焦石山、象石などの呼稱で南中國海の海域または島?礁を指した。呼稱は全てが同じというわけではないが、南中國海での活動の増加に伴い、南中國海に対する認識が次第に深まり、かつ具體化へと向かったことを示している。南中國海諸島に対する中國の政権による管轄は唐?宋から次第に始まった?!杆畮煛乖O立、海防範囲への組み入れは、中國の政権にとって南中國海に対する管轄権を実施する重要な方法だった。(文:李國強?中國社會科學院中國辺彊研究所研究員)
明?清時代、南中國海諸島の経営?開発と管轄に一層の発展があった。現在數10種の寫本が殘る貴重な文獻『更路簿』は、中國の漁師が海南文昌清瀾港、瓊海潭門港などから出航して、西沙(英語名パラセル)海域、南沙(英語名スプラトリー)海域へ向かったことの真実の記録だ。操業作業線約200本、漁師が西沙と南沙の島?礁に命名した地名約120を記録しており、中國人の経営?開発の範囲が現在の南沙諸島の主要な島?礁と海域に完全に及び、西沙海域、南沙海域が中國人が世々代々操業?経営してきた伝統的漁場であることを十分に物語っており、南中國海で中國が有する歴史的権利を示すのに十分だ。
中華民國の時期、中國政府は南中國海諸島の名稱を決定した。1934年に內政部(內政?。┧懙貒韺彇宋瘑T會は「わが國の南中國海諸島各島嶼の中英地名対照表」を発表し、132の島?礁などの名稱を列挙した。1935年4月から1948年までに中國國內で刊行された各種地図のうち、少なくとも60點が南中國海諸島を完全に表記している。水陸地図審査委員會による南中國海諸島の名稱、地図の審査と発表は、中國政府が南中國海諸島に対して実施した有効な管轄だ。
抗日戦爭勝利後、カイロ宣言とポツダム宣言の精神に基づき、中國政府は西沙諸島、南沙諸島の接収と主権回復を決定した。1947年2月28日、國民政府は西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島接収完了の官報を発表。その後、南中國海諸島及びその附屬各島?嶼?淺瀬?砂州の名稱を改めて審査の上決定し、12月1日に計167の島?礁?淺瀬?砂州の「南中國海諸島新舊地名対照表」を発表した。1948年2月に內政部は『中華民國行政區域図』を発表。その附図『南中國海諸島位置図』は南中國海諸島の名稱と南中國海の11本の斷続線を明確に表示している。