日本政府は、「日本または琉球國による釣魚島の保有」を裏付ける法理や根拠となる事実を1895年以前に遡っては挙げられないことを重々承知している。日本政府はそのためこれまで長期にわたり、事実と文獻を歪めた一面的な解釈を國際法の學者を通じて與えることを余儀なくされてきた。近年はとりわけ、國內の學者や記者、右翼団體などを利用し、中國大陸と臺灣の関連地図?文獻を隅々まで探し回り、釣魚島の日本帰屬を中國が認めていたことをどうにか証明しようと躍起になっている。日本政府はウェブサイトで、これらの調査活動の結果を公表している。だがそうした努力は徒労である。以下、いくつかの例を挙げてこれを説明しよう。(文:劉江永?清華大學國際関係研究院教授)
一、日本外務省によると、「1920年5月に、當時の中華民國駐長崎領事から福建省の漁民が尖閣諸島に遭難した件について発出された感謝狀においては、『日本帝國沖縄県八重山郡尖閣列島』との記載が見られ」、これは、釣魚島の日本帰屬を中國が認めた揺るがぬ証拠だという。だが日本の臺灣殖民統治時代の史料を証拠として持ち出すのは、時間的な順序の転倒した錯誤である。
中華民國9年(1920年)5月20日、中華民國駐長崎領事?馮冕が「日本帝國八重山郡石垣村顧玉代氏孫伴君」に宛てたものとされるこの「感謝狀」には、「中華民國8年、福建省恵安県の漁民である郭和順ら31人が、強風のため遭難し、日本帝國沖縄県八重山郡尖閣列島內和洋島に漂著した」との記載がある。日本の一部はこれを、「尖閣列島が日本の領土であることを中國が認めていたことを示す最も有力な証拠」とみなしている。
だが「感謝狀」に記されている「尖閣列島內和洋島」がどの島を指すのか、今になっても明らかになっていない。中日両國が釣魚島を「和洋島」として扱った先例はない。日本側の資料にも「和洋島」という島名は見當たらない。日本はかつて中國の釣魚島を「魚釣島」「和平山」と稱したが、「和洋島」という呼稱を使った例はない。
従って「感謝狀」記載の情報の真偽には考証の余地がある。だが史料の真偽を問うまでもなく、歴史的事実を少しでも分析すれば、「感謝狀」が十分な証拠足り得ないことはすぐわかる。日本は1895年、不平等條約「馬関條約」(下関條約)で中國の臺灣省を不當に占領した。これに先立って、臺灣に屬する島嶼の釣魚島も奪取している。この狀態は、日本が敗戦?降伏する1945年まで続いた。つまりこの間の「感謝狀」にそう書いてあるからといって、釣魚島が日本の「固有の領土」であることを証明することはそもそもできないのである。臺灣殖民統治時代の「証拠」を持ち出しても証拠にはならない。