日本の商店でよく育った野菜を見つけたら、誰が育てているのかすぐに知ることができてしまう。方法は簡単だ。攜帯を取り出して、野菜の値札のバーコードをスキャンするだけ。品種や栽培方法、栽培者の寫真がすぐに畫面に現れる。農家の夫妻が畑で撮った寫真を見れば、安全が守られているという信頼感がぐっと高まるのではないだろうか。このような生産現場への食品の遡及システムは、日本ではすでに珍しいものではなくなっている。
安心できる食品を食べられる環境を作るまでには、日本人も困難で曲がりくねった道を通ってきた。日本の食品は安全問題がまったくないわけではないが、ほかの國では望めない問題改善能力があることは間違いない。
▽50年前の「毒粉ミルク」事件
1955年6月頃から、西日本各地の多くの母親が、赤ちゃんの元気がなくなり、下痢や発熱、嘔吐、皮膚の黒ずみなどの癥狀を起こしているのに気付いた。調査によって、親たちは禍の源を突き止めた。子どもの飲んでいた粉ミルクが日本の大手乳業メーカー森永のものであるという共通點を発見したのである。
當時、森永グループは粉ミルクの加工時にリン酸ナトリウムを乳質安定剤として使用していた。徳島の加工工場で使用していた質の悪いリン酸ナトリウムにヒ素が混入し、乳児の神経や內臓に深刻な損傷を與えたのである。事件が明るみになる前に、22人がすでに、毒ミルクを飲んで亡くなっていた。事件後1年で、死亡した乳児の數は130人に達した。
事件発生後、被害者の家族は「森永ミルク被災者同盟全國協議會」(略稱「全協」)を結成し、賠償と事後策について森永との交渉を開始した。だが思いがけないことに、交渉は10年余りにわたる厳しいプロセスとなった。森永のような大企業に対しては、當時の政府はこれをひいきする態度をとりがちだった。
このような環境によって民間の力が開花したことは、日本が食品安全の困難から脫する鍵となった。