入り口から近い位置に置かれた棚の上には「麺人郎」と書かれた額縁が飾られており、その棚の中には小麥粉粘土細(xì)工の作品とこれまで手にした賞狀が秩序よく陳列されている。そして棚の前には學(xué)習(xí)機(jī)ほどのサイズの作業(yè)臺(tái)が置かれており、その上には人形細(xì)工を作るための道具がきちんと並べられていた。「環(huán)球人物」が伝えた。
これが郎佳子彧さんのアトリエだ?,F(xiàn)在このアトリエでは3人が働いており、彼らの普段の仕事內(nèi)容はバラエティに富んでいながらシンプルだ。郎佳子彧さんは作品作りを擔(dān)當(dāng)しており、その制作プロセスをカメラの前で見せていく。他の2人は、1人が動(dòng)畫の編集と作成を、もう1人が企畫と運(yùn)営を擔(dān)當(dāng)している。
それ以外の時(shí)間、彼らの暮らしぶりはほとんどの「95後(1995年から1999年生まれ)」と変わらない。ゲームに興じ、バスケットボールを楽しみ、食べて、飲んで、といった具合だ。もし誰かが特に言い出したりしなければ、彼らの伝統(tǒng)文化との関わりについて気付く人はまずいないだろう。100年前、貧しい家に生まれた郎紹安さんは、民間工蕓職人の師匠に弟子入りして小麥粉を使った人形である「麺人」作りを?qū)Wび、數(shù)十年後にはその世界では知られた大家となり、「麺人郎」(「麺人」作りの郎)の呼び名を與えられた。そして現(xiàn)在、その技は彼の孫である郎佳子彧さんへと伝えられている。
「麺人郎」を世界の人に知ってもらいたい
郎佳子彧さんの祖父である郎紹安さんは12歳の時(shí)、伝統(tǒng)工蕓である「麺人」作りに並々ならぬ興味を抱き、家族の許しを得て、正式に弟子入りして學(xué)んだ。その影響で、郎佳子彧さんの父親である郎志春さんもまた幼い頃から熟練した職人の技を身につけた。
郎佳子彧さんも幼い頃から祖父の物語を聞いて育ち、自然と「麺人」作りに対して親近感を抱くようになったという。
3、4歳になると、郎佳子彧さんはよく小さな腰掛を運(yùn)んで來ては、父親のそばに座り、父親が小麥粉粘土で人形を作る様子にじっと見入り、そして見始めると1時(shí)間でも2時(shí)間でも見続けていたという。4、5歳になると、父親の指導(dǎo)を受けながら、正式に「麺人」作りを?qū)Wび始めた。ただひたすら練習(xí)を繰り返す日々だったが、郎佳子彧さんがつまらないと感じることはなかった。そして郎家に伝わるこの技は彼にとってプレッシャーを與えるのではなく、むしろ數(shù)多くの楽しみをもたらしてくれた。
郎佳子彧さんが6歳の時(shí)、父親は彼に座った姿勢(shì)の子供の人形を作らせた。2時(shí)間半後、郎佳子彧さんは自分が作り上げた人形の不格好さに怒りを覚え、丸めてつぶしてしまおうとした。しかし父親はそんな郎佳子彧さんを止めた。そして、「父はよくできているから、きちんと殘しておきなさいと言ってくれた」と郎佳子彧さんは振り返る。
こうした家族の薫陶を受けた郎佳子彧さんは、知らず知らずのうちに一種の使命感を抱くようになったという。そして小學(xué)校2年生の時(shí)に、授業(yè)で先生が「挙世聞名(世界の人が知っている)」という四字熟語を使って例文を作るように言った時(shí)、普段はあまり積極的ではなかった郎佳子彧さんは手をあげ続け、ついに先生から指名され、抱いていた夢(mèng)を発表するチャンスを手にした。そして郎佳子彧さんは、「僕は『麺人郎』を世界の人に知ってもらいたい」と発表したが、クラスはシーンと靜まり返ってしまった。誰も「麺人郎」とは何なのか知らなかったからだ。先生はその場(chǎng)の雰囲気を和らげるため、郎佳子彧さんに「麺人郎」とは何なのか説明するように言ったという。しかし郎佳子彧さんが「麺人郎」の説明を終えても、クラスはまだシーンと靜まり返ったままだった。この時(shí)のことを郎佳子彧さんはいまだに忘れられないという。
「あの時(shí)はとてもつらかった。でも今、思い起こすとそれほどつらいとは感じなくなった。その時(shí)に『麺人郎』を世界の人に知ってもらうという使命感が生まれたんだと思う」と郎佳子彧さん。
2010年、郎佳子彧さんと父親は共に北京市中國文學(xué)蕓術(shù)界聯(lián)合會(huì)の成立60周年記念イベントに參加した。そしてその舞臺(tái)で「壽老人」を作りあげた郎佳子彧さんは、賞賛の聲を受けただけでなく、北京市民間文蕓家協(xié)會(huì)に特別に入會(huì)を認(rèn)められ、當(dāng)時(shí)最年少の會(huì)員となった。
現(xiàn)在、郎佳子彧さんは中國の國家級(jí)無形文化遺産である北京の「麺人郎」の第三代伝承人となっている。「自分はアーティストだと思いますか?」という記者からの質(zhì)問に、郎佳子彧さんは迷うことなく、「思うかどうかではなく、僕はアーティスト」と答えた。