日本留學経験者は中日交流の架け橋の1つだ。彼らは日本に數年間留學し、暮らし、日本社會に対して一定の理解を持つと同時に、中國についても多く理解している。このため中日両國間の相互理解の促進に非常に大きな役割を果たしている。また、彼らが帰國後に學んだことを発揮することで、國の経済建設と社會発展も促された。人民網はこの重要な人々にインタビューを行ない、その姿を読者に紹介する。
■今回紹介する方
李仲生さん、男性、1951年7月に北京に生まれる。経済學者、千葉大學経済學博士、早稲田大學経済學ポストドクター、首都経済貿易大學教授、研究員。若い頃に內蒙古自治區の人民公社の生産隊で働く。1986年に日本に自費留學。1992年に城西大學経済學部を卒業し、経済學士號を取得。同年、城西大學経済學研究科に進學し、1995年に経済學修士號を取得。1995年4月から千葉大學で學び、2000年3月に経済學博士號を取得。同年、早稲田大學経済學研究科でポストドクターとして経済學研究に従事。2000年から首都経済貿易大學に勤務し、現在首都経済貿易大學労働経済學院日本経済研究センター主任、教授。
■取材メモ
10數年前のドキュメンタリー『私たちの留學生活--日本での日々』に當時の人々は感動した。今日もなお多くの人々がこのドキュメンタリーの評判を聞いて探し求めたり、改めて見たりしている。ドキュメンタリーを見た人はほぼ全員が「感動した」「心揺さぶられた」といった感想を述べている。その1つのエピソード「私の太陽」の主人公で、博士の夢を実現するために半生の心血を注ぎ盡くし、いかなる代償も惜しまない李仲生さんも人々の記憶に殘っている。ドキュメンタリー中の彼の感動的な歌「私の太陽」には無數の人々が涙を流した。彼の執念に対しては人々の評価は分かれるが、みな一様に彼の運命を気にかけてきた。首都経済貿易大學労働経済學院日本経済研究センター主任となった李さんは今、何をしているのだろうか?自らのとても長い留學の道をどう振り返り、評価しているのだろうか?6月のある日の午後、記者は李さんと再び會う約束をした。
■インタビュー
李教授が約束通り再び私の前に現れた時、相変わらず元気旺盛で、生き生きとしているように感じた。毎日3、4時間しか眠らず、多くの時間を執筆と仕事に費やしているにも関わらず、話し始めると聲が力強く、少しも疲れを感じさせない。
----日本に留學されたのはいつですか?當時中日間の交流はどのような狀態にありましたか?
留學を始めたのは1986年7月です。當時、海外留學はまだわりあいしやすく、年齢制限もありませんでした。當時すでに35歳でしたが、経済保証人を見つけ、卒業証書や関係書類を揃え、面接試験に合格しさえすれば行くことができました。しかし2年後には次第に條件が厳しくなり、年齢制限も始まりましたようです。
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李仲生さん |