今回の人物:
郭強さん、男性。1956年6月8日、日本の東京生まれ。工學修士。現(xiàn)在、北京聯(lián)合大學自動化學院の準教授を務める。1987年3月に日本留學し、大阪府立大學大學院経営工學専攻を卒業(yè)し、2000年に中國に帰國。北京市華僑連合會日本華僑親睦會副會長兼事務局長。主な編著書に「日本帰國華僑と中日友好」(執(zhí)行編集主幹)がある。
インタビュー実録:
■家庭の事情で小さい頃から日本語を?qū)W習
――日本に留學されたのはいつですか。當時、中日両國の交流はどのような狀況にありましたか。
當時の留學手続きは今よりずっと面倒でした。私は1986年に手続きを始め、87年3月に日本に出発しました。中日両國の関係は非常に良好で、日本留學は米國留學より人気がありました。
中國では1980年代、日本の映畫やドラマがよく放送されていました。日本の技術(shù)が発達していることも知られていました。私自身は、両親が日本帰りという特殊な環(huán)境があり、小さい頃から両親の話す日本語を聞き、影響を受けて育ちました。高校の時、父が仕事の合間に日本語を教えてくれるようになり、兄と弟と一緒に日本語を勉強しました。當時、中國と日本の首脳はどちらも相手を重視し、政治?経済?文化?スポーツなど各種の代表団を相互に派遣していました。私はこのような背景で日本に留學しました。
――日本に著いてどんな印象を受けましたか。
日本に到著して飛行機を降りると、多くの看板やネオンライト、小型車があふれていて、目がくらむようで、夢を見ているようでした。最初に著いたのは大阪でした。道行く人はみなおしゃれで、地下鉄や路線バス、長距離バスもとても快適で、ハイテクさが目につきました。日本語は日本に行く前に勉強し、大學に入ってからも獨學し、第二外國語として學んでいたのですが、當時、日本の大學院に入るには語學學校で學ぶ必要がありました。ですから大阪の語學學校で日本語の基礎知識を系統(tǒng)的に學びました。
語學學校を終えて、大阪府立大學の大學院研究生となりました。日本の大學院では、研究室でまず一年間聴講する必要がありました。この一年で教授が學生を観察し、専門知識を?qū)Wばせ、一年後に試験して採用するかを決めるのです。日本では語學學校で一年、大學院で研究生として一年、大學院生として二年學び、四年かけて修士學位を取得しました。
郭強さん