「白樺 青空 南風(fēng) こぶし咲くあの丘 北國(guó)のああ 北國(guó)の春」。呂淑君さん(92)が4日、長(zhǎng)女の郝寶雲(yún)さんの同伴の下、合肥市廬陽(yáng)區(qū)で開(kāi)かれたイベント「四世代同居を探し、廬州の家風(fēng)を伝える」の會(huì)場(chǎng)に訪れ、この日本の名曲を日本語(yǔ)で聲高らかに歌った。
「母は日本で8年生まで學(xué)びました。今の中學(xué)に當(dāng)たり、勉強(qiáng)熱心な人でした」と郝さん。1945年に抗日戦爭(zhēng)が終結(jié)し、呂さんは中國(guó)に留まり、殘留孤児となった。その後吉林で中國(guó)人男性と結(jié)婚し、安徽省を支援するために1958年に安徽省合肥市にやってきた?!?人は食糧機(jī)械工場(chǎng)で直向に、真面目に働き、父は省の模範(fàn)労働者に選ばれたほどです」。
両親の姿は郝さんや弟をも勵(lì)まし、郝さんは學(xué)生時(shí)代成績(jī)優(yōu)秀でクラス委員などを務(wù)め、その後は路線バス會(huì)社に勤務(wù)、その働きぶりが認(rèn)められ同じく省の模範(fàn)労働者に選ばれた。弟も勤勉に働き、成績(jī)優(yōu)秀だったため、合肥のゴミ収集車工場(chǎng)の一般従業(yè)員から工場(chǎng)長(zhǎng)へと昇進(jìn)した。
1984年に食糧機(jī)械工場(chǎng)を退職後、呂さんは市內(nèi)の合肥工業(yè)大學(xué)の招きを受けて3年間日本語(yǔ)教師を務(wù)めた?!干饯椁馊藲荬韦ⅳ胧跇I(yè)で、今年も4人の卒業(yè)生が人伝に母の居場(chǎng)所を捜して挨拶にきました」と郝さんは言う。
合肥での暮らしは60年近くになり、郝さん一家は今や四世代同居、一家19人となった?!附瘠扦馊沼洡蚓Aけており、毎日の天気とその日の出來(lái)事を記し、エレクトーンを弾いたり歌を歌ったりして過(guò)ごしています」と呂淑君さん。「仁孝禮儀」を基礎(chǔ)に、勤勉で勉強(qiáng)熱心という點(diǎn)も世世代代受け継いでいってほしい」と語(yǔ)った。(編集IM)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2016年1月5日