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2016年4月18日  
 

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獨特な魅力を放つ日本のからくり人形

人民網(wǎng)日本語版 2016年04月18日15:57

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名古屋市の著名なからくり人形師である玉屋莊兵衛(wèi)がこのほど、同市內(nèi)のアイリスホテルで駐日外國メディア記者に向けて日本の伝統(tǒng)的なからくり人形の魅力を披露し、熱い歓迎を受けた。新華網(wǎng)が伝えた。

今回披露されたのは「茶運人形」、「弓弾人形」、「文字書き人形」などのからくり人形だ。これらのからくり人形は全て江戸時代に登場したもので、玉屋莊兵衛(wèi)がそれらの復(fù)元に成功した。このうち、「茶運人形」は1650年前後にはすでに存在していた。ねじを巻いたあと、人形が持つ盆に茶碗を置くと、人形が客の手元に持ち運び、自分で向きを変え主人のところまで戻ってくる。「弓弾人形」はネジを巻いた後、自分で矢をつがえて、前方の的に向かって弓を弾く。「文字書き人形」は口に咥えた筆と手に持った筆で同時に「竹」や「松」の字を書く事が出來る。これまでに知られている中で唯一、2つの字を同時に書けるからくり人形だ。

日本のからくり人形文化は15世紀(jì)~16世紀(jì)末に西洋から伝來した技術(shù)のうち、機械時計の技術(shù)に強く影響を受けている。17世紀(jì)くらいになると歯車やネジなどの技術(shù)を利用したからくり人形が登場し始めた。當(dāng)初は當(dāng)主や大名、裕福な商人の高級な遊び道具だった。のちに縁日や祭りの席でからくり人形が披露されることで一般庶民がからくり人形に接觸する機會が増えた。大人気となったからくり人形は急速に日本各地に普及し、専門職人が登場するとより精巧なからくり人形が作られはじめた。

初代莊兵衛(wèi)は1734年、京都から名古屋の玉屋町に転居したことから玉屋莊兵衛(wèi)と呼ばれるようになった。5代目まではずっと「玉屋莊兵衛(wèi)」の屋號を名乗る職人はその時代における優(yōu)秀なからくり人形職人が継承してきた。

高科正芳氏が玉屋莊兵衛(wèi)の屋號を継ぐことで、この屋號は代々高科家で継承されてきたことになり、現(xiàn)在の玉屋莊兵衛(wèi)は9代目になる。本名は高科莊次、1954年生まれの高科氏は1995年、家電メーカーの東芝の創(chuàng)業(yè)者である田中久重が江戸時代の終わりに製作した「弓弾人形」を復(fù)元した。1998年、彼は正式に玉屋莊兵衛(wèi)の屋號を継承した。

名古屋の自宅兼アトリエでからくり人形の製作や各地の縁日で修復(fù)したからくり人形の披露をするほか、1996年から、玉屋莊兵衛(wèi)は毎週犬山市文化資料館の「からくり人形展示館」でからくり人形製作の技術(shù)をデモンストレーションしている。

2003年、彼は東京都の上野にある國立科學(xué)博物館に自身が製作した「茶運人形」を寄贈した。2005年、彼がロンドンの大英博物館に寄贈した「茶運人形」は日本文化常設(shè)館に展示されている。

玉屋莊兵衛(wèi)は何度も歐米、オーストラリアなどの國を訪問し、日本の伝統(tǒng)技術(shù)を紹介し、またからくり人形を現(xiàn)地で披露している。(編集JK)

「人民網(wǎng)日本語版」2016年4月18日

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