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2015年7月31日  
 

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「中國が私の故郷」、感動(dòng)の中國殘留孤児回想記

人民網(wǎng)日本語版 2015年07月17日14:27

戦後の混亂の中で1958年、「中國殘留孤児」として中國東北地域からたった一人で日本に戻り、のちに中國語通訳として日中交流に盡力してきた中島幼八さん(73)がこのほど、孤児時(shí)代の回想記「一中國殘留孤児がつづる―この生あるは(中國語版:何有此生)」を自費(fèi)出版した。

東京出身の中島さんは1歳の時(shí)に、開拓団になった両親と姉と共に黒竜江省寧安県沙蘭鎮(zhèn)王家屯に來た。しかし、中島さんの父親?博司さんは、1945年に軍に召集され、そのまま行方が分からなくなった。そして、同年日本が敗戦すると中島さん一家は難民となった。ある冬のこと、厳しい食糧難のため、弱っていく中島さんを、母親はやむなく知人の中國人行商人?王さんに託した。

王さんは、ぐっすり眠る中島さんを天秤棒で擔(dān)いで、引き取り先を必死に探した。「この幼い命がかわいそうだ。私が育てます」。この一言で名乗りを上げたのは、農(nóng)民の孫振琴さん。侵略者である日本人の子供と知りながらも、ためらうことなく、「來福」という新しい名前が付けられた中島さんが1958年に日本に戻るまでの13年間、孫さんと3人の養(yǎng)父からたっぷりと愛情をもらって育った。

引き上げが決まり、中島さんを連れて帰りたいと考えた実母が養(yǎng)母と爭(zhēng)うことになった。そこで村長(zhǎng)が仲裁に乗り出し、実母と養(yǎng)母を20メートルほどの間隔で立たせ、真ん中に3歳半の中島さんを置いて、どちらに近づくかで親を決めることになった。 中島さんはよちよちと養(yǎng)母に向かって歩いた。中島さんはこの話を、養(yǎng)母が近所の家でおしゃべりをしている時(shí)に聞いたという。中島さんの一人目の養(yǎng)父は素樸な農(nóng)民?陳玉貴さん。中島さんは今でも、仕事から帰って來た陳さんの帽子が凍っていたことを覚えている。中島さんは「パパ」と叫びながら、陳さんの胸に飛び込んでいた。しかし、中島さんが8歳の時(shí)、陳さんは病死した。

その後、養(yǎng)母は李希文さんと再婚。李さんが二人目の養(yǎng)父となった。それに伴い、中島さんの名前も、「陳慶和」から「李成林」に変わった。12歳の時(shí)、中島さんは體がむくむ病気にかかった。村では同じ病気で既に2人が亡くなっていたため、父親がすぐに中島さんを牛車に乗せ、醫(yī)者を探し、中島さんは一命を取り留めた。

中島さんの三番目の養(yǎng)父は河北省唐山市出身の趙樹森さん。港の作業(yè)員として働いたり、林場(chǎng)でコックとして働いたりしていた。しかし、中島さんは、大きくなってから、養(yǎng)母と趙さんが一緒に暮らしたことは一度もなく、ただ、將來のために中島さんの戸籍を農(nóng)村部から都市部に移すためだけに、形式的に再婚しただけであることを知った。

1958年6月、恩師として慕っていた中國人の教師の説得の下、16歳だった中島さんは、最後の引き揚(yáng)げ船に乗り、日本へ渡った。村に戻って養(yǎng)母に別れを告げる時(shí)間もないほど、手続きに時(shí)間がかかったという。その後、中島さんが養(yǎng)母に會(huì)うことは二度となかった。

東京に戻った中島さんは一生懸命勉強(qiáng)に勵(lì)み、高校卒業(yè)後、日中友好協(xié)會(huì)に就職。退職するまで、中國の訪日団の通訳などに従事した。中島さんは、「將來、中日友好のためになることをしなさい」という、中國を離れる前に語った恩師の言葉を今でも覚えている。

ある日、中島さんは、帰國した殘留孤児の手紙を翻訳するよう友人から頼まれる。封筒を開けると、養(yǎng)父の趙樹森さんとその養(yǎng)女一家の寫真が出てきた。その時(shí)、中島さんを引き取る前に、趙さんは中國東北地域の日本人農(nóng)家で働いていたことを知った。敗戦後、その農(nóng)家の主人はシベリアに送られ、その妻が病死。3人の子供が殘された。一番上の息子は、他の場(chǎng)所で力仕事をしていた。病死した女性の埋葬を手伝った趙樹森さんは、3歳だった男の子を近所の家に引き取ってもらい、女の子を養(yǎng)女として自分が引き取った。

中島さんは、自分の子供のいない趙さんは、日本人の子供2人を養(yǎng)子として引き取っていたことを知る。腰の曲がった趙さんは、中島さんにとって永遠(yuǎn)のヒーローだ。

中島さんのもとに送られてきた養(yǎng)母からの手紙には、「私達(dá)には息子がいない。また來福に會(huì)える機(jī)會(huì)があれば『息子よ』と呼びたい」と書かれていた。この話をしてくれた中島さんの目からは涙がこぼれ、「養(yǎng)母は排泄物で汚れるのをものともせず、心血を注ぎ、13年間にわたり、私を育ててくれた。養(yǎng)母の心は、全く汚れのない水のように透き通っている。私を育てることに、何の企みもなかった」。

退職後、中島さんは2年かけて回想記を書いた。しかし、出版社は売れないと考え、中島さんは自費(fèi)出版するしかなかった。年金1年分に當(dāng)たる約100萬円必要だったという。販売ルートもないため、中島さんは近所の本屋を訪ねた。店主の中村徳義さんは「とりあえず1冊(cè)置いておいて」という反応だったものの、次の日、「昨晩、寢ずに読んだ。とても感動(dòng)した」との電話が入り、支店數(shù)店に「おすすめ作品」として置いてもらえることになった。そして、約170冊(cè)が売れ、店で最も売れた本になった。中村さんは、「中島さんが売っているのは本ではなく、『感動(dòng)』」と絶賛する。

中島さんは、「中國人は本當(dāng)に親切。感動(dòng)した。中國人を見直した」と書かれた手紙を、読者から受け取っているという。 (編集KN)

「人民網(wǎng)日本語版」2015年7月17日

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