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2014年9月9日  
 

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中日文化交流の証、唐代のパスポートとビザ

人民網(wǎng)日本語版 2014年09月09日16:18

外國に出かける際には、出入國審査の際に、必ずパスポートとビザを攜帯しなければならない。だが、パスポートやビザに関する規(guī)定がいつ頃から始まったのか、読者はご存じだろうか? 唐の時(shí)代のパスポートやビザは、一體どんな形狀をしていたのだろうか?寧波博物館に入り、1100年前にタイムスリップし、唐代のパスポートとビザを見てみよう。人民網(wǎng)が報(bào)じた。

寧波博物館の擔(dān)當(dāng)者によると、古代の公文書は、「牒(ちょう)」と呼ばれていた。漢代や晉代からの伝統(tǒng)を受け継ぎ、旅行に出る際には、主要な関所や渡し場で、當(dāng)時(shí)の役所が発行した通行許可証を提示しなければならなかった。この通行許可証は、「當(dāng)所を通ることを許可する」という意味で、「過所(かしょ)」と呼ばれた。「過所」の発行申請をする際、申請者は、本人の氏名、年齢、攜帯品の內(nèi)容および個(gè)數(shù)、行先などが書かれた「牒文」を用意しなければならない。寧波大學(xué)の劉恒武教授は、この「牒文」の返答文書にあたる「批文」が、現(xiàn)代のビザに相當(dāng)し、「牒文」がパスポートに相當(dāng)すると補(bǔ)足説明をした。

寧波博物館の擔(dān)當(dāng)者は、次のように話した。

唐貞元19年(西暦803年)、最澄法師らが日本からの遣唐使として、明州(今の寧波)に到著した。翌年、最澄法師は明州政府に天臺山巡禮を願(yuàn)い出た。許可が下りた後、明州や越州などを巡禮した。その後、最澄法師は日本に帰國し、中國天臺宗を基礎(chǔ)として、日本で天臺宗を開いた。最澄法師は、浙東臨海の龍興寺で密教の教えを?qū)Wび、日本の仏教文化の発達(dá)と當(dāng)時(shí)の社會発展に大きく貢獻(xiàn)し、古代海上シルクロードの文化交流の証言者ともなった。(編集KM)

「人民網(wǎng)日本語版」2014年9月9日

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